あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイの福音書5章7節)
1.詩篇103篇1節ー14節
2.マタイの福音書18章21節ー33節
3.ルカの福音書10章26節ー37節
4.テモテへの手紙第一1章2節及び12節ー14節
パウロはテモテへの手紙以外の書簡では「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と挨拶されていますが、テモテには「父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。(テモテへの第一と第二の手紙の1章2節)」と、恵みと平安の間に「あわれみ」が書かれているのは、「あなたの涙を覚えている」というパウロの言葉からテモテが弱さを抱えていたからではないでしょうか。パウロは教会を迫害していたのでご自分のことを「罪人のかしら」と称しながら、罪が赦されただけでなく、あわれみを受けて福音宣教の働きに任命されたことを証してテモテを励まされたのでした。イエス様は「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。」と尋ねたペテロに「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と答えられてから、主人から一万タラント(60000000デナリ)の負債を赦されたにもかかわらず、赦されたことが信じられなくて百デナリを借りていた人をつかまえて首を絞めて「借金を返せ」と言って赦さなかったことを聞いた主人は「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやりべきではないか。」と言って怒って借金を全部返すまで獄吏に引き渡した、と、たとえ話をもってあわれむことの大切さを語ったのでした。罪が赦されているのは神のあわれみによるものであることを、自分を含め、完全な人はひとりもいないことを忘れずに幸いな者として生きるために、赦すことは痛みを伴うものですが、互いに赦し合いながらあわれみ深い幸いな者として生きるために、私たちの全生涯の罪に対する罰を引き受けて十字架の刑に服されたイエス様を忘れずに生きようではありませんか。