だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら自分を欺いているのです。(ガラテヤ人への手紙6章3節)

1.イザヤ書14章12節―15節
2.ルカの福音書18章9節―14節
3.ローマ人への手紙3章10節―28節
4.エペソ人への手紙2章1節―9節

主はヨブに「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているのか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。(ヨブ記38章4節―7節)」と、人は被造物の最後に創造されたために神が天と地を創造されたさまを見られませんでしたが、御使いたちはそれを見て喜び叫んだのですが、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」と、自分が被造物であることをわきまえずに、神のようになろうと自分を欺いたために天使長であったにもかかわらず、サタンとか悪魔と呼ばれる存在になり、天から地に落とされ(イザヤ書14章12節―14節)、エバに、善悪の知識の木から取って食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになる、と、自分と同じ罪を犯すように誘い込んだのでした。それ以後、福音書の中に見られるように弟子たちでさえ、だれが一番偉いかなどと議論したように、人は自分と他者を比較して、比較する相手によって優越感に浸るようなことをしてしまいがちなのではないでしょうか。しかし、パウロは「すべての人は罪を犯したために神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです(ローマ人への手紙3章23節―24節)」と語っています。欺きから守られるために、他者と自分を比較するようなことをせず、被造物の立場を、恵みによって贖われていることをわきまえて優越感や劣等感を抱かずに主を誉めたたえて生活しようではありませんか。