いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章18節)
1.ヨハネの福音書14章1節―11節
2.ペテロの手紙第一1章3節―9節
3.ヨハネの手紙第一4章7節―10節
4.ヨハネの手紙第一5章19節―21節
今日の聖句が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と語っているように、モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と主に申し上げても、主は「あなたがわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。・・あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」と仰せられたのでした。数々の奇蹟を体験していても、モーセが山から下りてくるのに手間取っていたため、民がアロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言うと、アロンは彼らの金のイヤリングから金の子牛を造って、それを神とするような愚かなことをしたように(出エジプト記32章1節―5節)、人は神の存在を知っていながらも見たことがないので滅びゆく人間や神が創造されたさまざまな被造物の像を造って神とするようなことをし続けているのではないでしょうか(ローマ人への手紙1章20節―25節)。そのような世界に神は御子イエス様をお遣わしになり、神がどのような方であるかを明らかにされたのでした。イエス様が弟子たちに「あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」と仰せられるとピリポが「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と申し上げたので、主は「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」と言われました(ヨハネの福音書14章7節―9節)。パウロは「満ち足りたりる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」と語っています。ピリポのようにではなく、世の人々のように神を知らない者ではなく、神を知っていることを喜んで生きようではありませんか。