わたしについて、「ただ、主にだけ、正義と力がある」と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。(イザヤ書45章24節―25節)

1.ローマ人への手紙3章19節―30節
2.ローマ人への手紙8章28節―30節
3.コリント人への手紙第一1章22節―31節
4.ピリピ人への手紙3章3節―9節

神から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンは「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。(伝道者の書7章16節口語訳)」と、自分の義や自分の賢さに生きることの危険性を語りました。律法による自分の義に生きていた時のパウロは、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えて多くの聖徒たちを牢に入れたり、ステパノを石で打ち殺すことにも賛成の票を投じたりしたのですが、ダマスコの途上でイエス様から「なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ。」と声をかけられたので、「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(イエスの意味=ヤウエ(イスラエルの神)は救いである)。」という答えが帰ってきたのでした。今日の聖句が「わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」と語っているように、パウロは自分が迫害していたのは彼をはじめユダヤ人が待ち望んでいた救い主であることを知ってキリスト者となり、神の義を知らずに自分自身の義をたてようとして、神の義に従わない同胞のイスラエルの民の救いを願う者となったのでした(ローマ人への手紙10章1節―3節)。キリスト者であっても自分の悟りに頼ったり、パリサイ人のように他のキリスト者と自分を比較して高ぶりに足を滑らせてしまうことがあるのではないでしょうか。神の義を知ったパウロが「誇る者は、主をほこりばなさい」と勧めているように、私たちの主がどんなに素晴らしい方であるかを忘れずに、主に栄光を帰して生きようではありませんか。