さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる。」これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネの福音書7章37節―38節)

1.イザヤ書55章1節ー3節
2.エゼキエル書47章1節ー12節
3.ヨハネの福音書 4章3節ー14節
4.ヨハネの福音書6章24節ー35節

神が天地万物を創造される前に創造された御使い以外の被造物は、人をはじめ、植物であろうと、動物であろうといのちを保つためには水が不可欠ですが、創世記2章7節が「神である主は土地の地理で人を形造り、その鼻にいのちの鼻を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と、同章19節が「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるのかを見るために、人のところに連れてこられた。」と語っているように、人は他の被造物と違って神からの息が与えられ、人は霊、たましい、からだの三つの部分を持つ者とされており飲水ではない水を必要としているのです(テサロニケへの手紙第一5章23節)。今日の聖句にある「祭り」は仮庵の祭りで、四十年の荒野を旅するときに主が与えてくださった水を思いこして祭りの最後の日にシロアムの池から水を汲んでそれを神殿に運ぶのですが、その時に「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む(イザヤ書12章3節)」と歌うようです。主は、その日に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる。」と、救いの泉はイエス様でご自身であることを話されたのではないでしょうか。生ける水はイエス様を信じる者に与えられる御霊であることをも語っています。コリント人への手紙第一2章12節は「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」と語っています。ですから、パウロは御霊を消したり、悲しませたりしないように勧めていますが、それは満足を与えることのできない欲に支配されないように、満ち足りた心をともなう敬虔に生きるためではないでしょうか。飢え渇きを覚える時、イエス様に立ち返り御霊が教えてくださるようにキリストのうちにとどまろうではありませんか(ヨハネの手紙第一2章27節)。