私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばせてくださいますように。(詩篇94篇19節)

1.イザヤ書49章7節ー13節
2.ローマ人への手紙15章4節ー13節(口語訳:忍耐と慰めの神)
3.コリント人への手紙第二1章3節ー6節
4.テサロニケへの手紙第二2章16節ー17節

ヨブは、サタンの試み会い、すべての持ち物やこどもたちを失っただけでなく、ヨブ自身も全身悪性の腫物におおわれてしまったのでした。ヨブにふりかかったわざいのことを聞いた三人の友人がヨブに悔やみを言って慰めようと互いに行ってヨブを訪問したのですが、ヨブとわからいほどの状態だったヨブを見て彼らは声をあげて泣き、おのおの自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまきちらしたのですが、七日七夜、ヨブとともに座っていましたが、一言もヨブに話しかけなかっただけでなく、天に向かってちりを投げましたが、主に祈ることもせず、ヨブが苦しさの中で心のうちをすべて正直に話すとともに「神」のことを考えていたにもかかわらず(ヨブ記1章ー3章)、三人の友はヨブを慰めるどころかヨブを非難したのでした(ヨブ記4章から)。人の慰めは状況によって非難やさばきに変化してしまうようなもろさを抱えているだけでなく、人の慰めによってやる気を起こすことができても一時的なものであり、神が与えてくださるような苦難に耐え抜く力を与えることはできないために、ソロモンは「私は再び、日の下で行われるいさいのしいたげを見た。見よ。しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたける者が権力をふるう。しかし、彼らに慰める者がいない。(伝道者の書4章1節)」と、「日の下」、すなわちこの世には慰める者がいない、と結論づけたのではないでしょうか。今日の聖句が「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばせてくださいますように。」と語っているように、思い煩うようなことが次から次に起こって悩むとき、必要なのは思い煩いを喜びに変える力をもった主の慰めであり、その慰めは、私たちのたましいを生かすことができる恵みに満ちているみことばによるものであることを心に据えて、思い煩いをすべて主に告白するとともに、すべてのことを益としてくださる主がどんな時にも一緒におられることを喜ぼうではありませんか。