互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)
1.マタイの福音書6章12節及び14節ー15節
2.マタイの福音書18章21節ー35節
3.ローマ人への手紙8章27節ー34節
4.エペソ人への手紙4章26節―32節
ヤコブの手紙3章2節が「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と語っているように、人はとかく自分勝手に生きてしまいがちなので失敗をしやすい者ですが、自分の義に生きてしまうと、自分のことを棚に上げて他者の失敗を赦せないのではないでしょうか。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と尋ねたペテロにイエス様は「七度まで、などとわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と仰せられてから、例え話として、一万タラント(60000000デナリ、1日の賃金が1デナリなので約164384年分)の借金を免除されたしもべが百デナリの借金(約三ヶ月分)をした同僚を赦さずに牢に投げ入れたことを知った主人はそのしもべに「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」と言って、借金を全部返すまで、獄吏に引き渡されてしまうようなことになることを話され「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」と仰せられました。しもべの問題は一万タラントの借金が免除されたことが信じられず、少しでも借金を返さなくてはならないという思いにかられてしまったことにあるのではないでしょうか。赦せない人がいると、心が暗くなり苦しくなるので、その人となるべく会わないようにしようとするのではないでしょうか。しかし、赦せないという問題は残ります。人を赦すことを可能にするのは、今日の聖句が「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」と勧めているように、一万タラントが赦されていること、すなわち、全生涯の罪が赦され取り除かれているために、罪に対する罰や神の怒りから完全に救われていることを自覚することにあるのではないでしょうか。箴言3章3節が「恵みとまことを捨ててはならない。」と勧めているように、恵みとまことに満ちておられる主を見上げて生きようではありませんか。