主は直ぐな人々のために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。(詩篇112篇4節)
1.出エジプト記10章21節ー22節
2.詩篇119篇129節ー144節
3.イザヤ書60章1節ー2節
4.エペソ人への手紙5章8節ー14節
創世記1章1節―5節に「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」と、主はまず光をもたらしてから被造物を創造されたことを、ヨハネの福音書1章1節―5節は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と、光の源泉が主にあることを語っています。パウロはローマ人への手紙1章ー6章において福音の奥義を語ってから、7章で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしていのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」と自分に罪(口語訳:罪の力)があることを悟り心の葛藤を覚えて「私は、ほんとうにみじめな人間です。」と心の葛藤を覚え苦しみましたが、主を見上げ、どんなものもキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできない、という確信を持たれたのでした(ローマ人への手紙8章38節―39節)。キリスト者になる前の自分の方が良い人だったように思わされ、キリスト者をやめようかと思ったことがありました。その時、主から「あなたは、以前は心に光を持っていなかったから自分の汚れが見えなかっただけで、今は光があるから心の汚れが見えるようになっただけです。」と言われたのでした。詩篇119篇130節に「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とありますから、今日の聖句「主は直ぐな人々のために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」を心に据えて、どうしたら良いのかわからないようなやみが襲ってきても、「直ぐな人」すなわち、心を主に向けて、主がどのような方であるかを思い起こし、やみにも意味があることを受け入れ、光をもたらしてくだる主を待ち望んで生きようではありませんか。