神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ人への手紙1章13節―14節)

1.詩篇1111節―10
2.ローマ人への手紙323節―30
3.ローマ人への手紙56節―11
4.エペソ人への手紙1章5節―14節

イザヤ書43章1節には「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐るな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」とあり、2 節では主はどんな時にもともにおられる救い主であることを、3節では「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代わりとする。』」と語ってから、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(4節)」と、神の目に高価で尊い者は贖われた者であること、そして「だから」ということばをもって、3節の「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代わりとする。」を繰り返し語っています。ところで、パウロは「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2章3節)」と語っていますが、数十年前から4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」だけがひとり歩きしてしまい、みことばが曲解されているように思うのですが、その根底には「みんな良い人」というようなヒューマニズムがあり、実際「イエス様が来られたのは人間がどんなに尊い存在であるかを知らせるためです」というメッセージを伺ったことがあります。ペテロは私的解釈をしないように勧告しています。パウロは語るにも生きるにも主が喜ぶことを心がけていました。今日の聖句「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」を心に据えて、十字架の恵みを履き違えないようにしようではありませんか。