主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(詩篇25篇10節)

1.イザヤ書23
2.マタイの福音書7章13節ー14節
3.ヨハネの福音書1章14節ー17節
4.ローマ人への手紙6章4節―14節

イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイの福音書7章13節―14節)」といのちに至る道は狭い、すなわち小道であることを示唆しているのではないでしょうか。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)」と、主ご自身が道であることを、そして天国への道は一つしかない事を語られました。ところで、イエス様はどのような方であるかというと、イエス様は恵みとまことに満ちておられる方であり(ヨハネの福音書1章14節)、イエス様を信じた者は、恵みによって救われただけでなく(エペソ人への手紙2章1節―9節)、キリスト者にはイエス様の満ち満ちた豊かさの中から、恵みが増し加えられているのです(ヨハネの福音書1章16節)。主はダビデに彼の子孫が罪を犯したときには人の杖やむちをもって懲らしめるけれども恵みを取り去ることはされない、という契約を与えられたのでした(サムエル記 第二7章12節―15節)。ダビデは多くの過ちを犯しましたが、常に主に立ち返り、主の恵みの深さを味わったのでした。キリスト者にはダビデの契約がイエス様によって与えられているのです。今日の聖句「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」を心に据えてパウロが「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ人への手紙5章20節)」と語っているように、恵みから落ちないように十字架によって開かれたいのちに至る恵みとまことに満ちている主の小道を歩ませていただこうではありませんか。