あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。(イザヤ書48章17節)
1.出エジプト記13章17節―22節
2.詩編23篇1節―3節
3.ヨシュア記1章1節―9節
4.ヨハネの福音書10章1節―16節
ヨシュア記は勝利の書と言われますが、その秘訣は約束の地に入るためにヨルダン川を渡らなくてはならない時にも、ジェリコを陥落する時にも、主が教えてくださったように行動したことによるものでしたが、アイの場合、ヨシュアは神の指示を仰がずに、アイを偵察して帰って来た者の「民を二、三千人ぐらい上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから。民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」ということばに従って出陣させたのでした。その結果、36人が戦死し、残りの民は逃げ帰ったのですが、神に立ち返って、神が指摘したアカンの罪を対処すると、神はアイを陥落することができる戦略を与えたので、その通りにするとアイを征服することができたのでした。神のことばで生きることの大切さを知ることができます。今日の聖句は「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。』」と、神は教えてくださる方であり、私たちが歩むべき道に導いてくださる方であること語っています。パウロは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)」と告白していますが、私は超教派の集会の賛美リーダーの方が「主よ愛しています。」と叫んでいる時、「主よ。愛します。」というゴスペルは歌っていても、「私は本当に主を愛しているのだろうか。」と悩んでしまうことがありましたが、どうしようもできない、と思うような時、思わず「主よ」と言うのを思い出して、愛していなかったら「主よ」と主に助けを求めることはしないのではないか、と思い、きっと愛しているのだろうな、と思うとともに、神を愛する人々とは「神のご計画に従って召された者」であるということは、すべてのキリスト者に適用されるものではないでしょうか。そのことをパウロ と同じように「知っています」という領域にまで引き上げるために、さまざまな出来事を通されるのではないでしょうか。どんな出来事も益としてくださり、歩むべき道に導いてくださる主を誉めたたえ、イエス様が「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14章1節)」と勧めておられるように、罪人を救うために御子をお遣わしくださっただけでなく、すべてを益としてくださる神である主を信頼して生活しようではありませんか。