見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。(イザヤ書50章9節)
1.ゼカリヤ書3章1節―5節
2.ローマ人への手紙8章33節―34節
3.コロサイ人への手紙2章13節―15節
パリサイ人として生きていた時のパウロは律法による自分の義については人から何ら非難される者ところのない者と自負するような生き方をし、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えてキリスト者を迫害していましたが、キリスト者なったパウロは自分の中に罪(口語訳:罪の力)があることを認識し悩みましたが、そのために十字架があることを、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないということを知る者となり、「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも信じないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本としようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。どうか、世々限りなくありますように。アーメン。」と恵を深く知る者となり、主に栄光を帰す者となられたのです。今日の聖句は「見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。」と問いかけています。罪に定めることができるのは神意外におられませんが、神は罪人を救うために御子イエス様をこの世に人としてお遣わしになったのです。彼は「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判定を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。(コリント人への手紙 第一4章3節)・・・主はやみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に称賛が届くのです」と、十字架の恵みを深く知る者となったのでした。パウロはご自分のことを「見本」と語りました。全生涯の罪は十字架で解決ずみであることを心に据えてパウロのように恵みをむだにしないように生きようではありませんか。