だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙 第二 5章17節)

1.エペソ人への手紙21節―10
2.エペソ人への手紙417節―24
3.ピリピ人への手紙3章12節ー15節
4.コロサイ人への手紙32節―11

パウロは「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとして人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(テモテへの手紙 第二 1章13節―16節)」と、パリサイ人として生きていた時には聖霊を持たず、自分の考えで多くのキリスト者を迫害していたにもかかわらず、キリスト者となり聖霊に満たされた彼は、神から教えられるという啓示を受ける者、神のみこころを知る者となり、全く変えられたのでした。人はだれでも、さまざまな失敗をするだけでなく、記憶力を持っているので、過去の出来事を思い出しては後悔しながら、心を痛めて生きてしまいがちになるのではないでしょうか。パウロは「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。(ピリピ人への手紙3章13節―15節)」と勧めています。パウロのことばである今日の聖句「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」を心に据えて、どんな過去があろうと、どんな性格であろうと、「キリストのうちにあるなら」パウロと同じように変えられるだけでなく、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙 第二3章18節)」と日々新しく造りかえられる恵みにあずかっていることを感謝して生きようではありませんか。