主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(サムエル記 第一 15章22節)
1.申命記28章1節―14節
2.詩篇40篇4節―8節
3.イザヤ書1章10節ー19節
サウル王は預言者サムエルから「主は私を遣わして、あなたに油を注ぎ、その民の王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。万軍の主はこう仰せられる『わたしは、イスラエルがエジプトから上ってくる途中、アマレク人がイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも、乳のみ子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」と告げられたのですが、サウルと彼の民は、アマレク人のアガク王を生けどりにし、肥えた羊や牛、子羊とすべての最も良いものを惜しんで聖絶せず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶したのでした。そしてサウルのもとに来たサムエルに「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」と言いましたが、サムエルから「では、私の耳に入る羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」と問われると「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。ほかの物は聖絶しました。」と答えたので、サムエルが「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思っていても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主はあなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか。」と主が仰せられたことを告げると、サウルは、自分は、主の声に聞き従ったけれども「民がギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」と、民のせいにしたので、サムエルは「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」と言ったのでした。サウルは神が立てた王なのですから、民に神が仰せられたように行動することを命じることができたはずですが、彼自身も民と同調していたのでした。しかも、サウルは「私の神、主に」と言わず「あなたの神、主に」と言ったことばに神との関係が希薄であったことがわかります。一方、ダビデも自分の考えでさまざまな罪を犯しましたが、罪を主に告白して主に立ち返り、神との関係を回復しながら信仰に歩むことができたのは主を「私の神、主は私の羊飼い」と語っているこばに見ることができるのではないでしょうか。みことばに聞き従って生きる秘訣は神との関係にあるのではないでしょうか。申命記28章は主の御声に聞き従うならすべてのことにおいて祝福されますが、聞き従わないならのろわれた者となってしまうことを語っていますが、ガラテヤ人への手紙3章13節が「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」と、ローマ人への手紙8章1節が「キリスト・イエスにある者が罪に定められることをは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたがたを解放したからです。」と、語っていることばを心に据え、肉の思いや欲に支配され、みことばよりも自分の考えや自分の思いで話したり、行動して良心のとがめを受けるようなとき、ヘブル人への手紙4章16節が「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように恵みとまことに満ちておられる主を仰ぎ見て、主がとりなして祈っていてくださることを(ローマ人への手紙8章33節―34節)、十字架ですべては解決されていることを教えている「恵みのみことば」を握って主をほめたたえて生きようではありませんか。