良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52章7節)
1.詩篇47篇1節—10節
2.ローマ人への手紙10章1節—15節
3.ペテロの手紙 第一 2章3節—9節
エジプトで苦役を強いられていたイスラエルの民を主はモーセを用いて多くの奇蹟をもってエジプトの手から救い出し、広い良い地、乳と蜜の流れる地に導かれようとされましたが、約束の地に入るためには荒野を通過する必要がありました。彼らは紅海を主が二つに分けられ対岸に渡り終えると、海水を元に戻り、追って来たエジプト軍をひとり残らず溺死させられた神の大いなる御力を見て、主を恐れ、主を賛美したにもかかわらず、約束の地を目の前にしたとき、モーセは主から約束の地についての詳細を知らされていたにもかかわらず、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上っていく道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」という民の意見に同意したのですが(申命記1章22節)、主は民を見捨てずに部族ごとにその族長をひとりずつ遣わすように助言されたのでした。約束の地を探って来た12人のうちカレブとヨシュア以外の者たちはモーセには「そこにはまことに乳と蜜が流れています。」と良い知らせを告げたにもかかわらず、民には約束の地について悪く言いふらしたので民はその情報を信じて不信仰に陥り、主を信頼せず「エジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死にたい。」とつぶやいたためにヨシュアとカレブ以外の20歳以上の者は約束の地に入ることができませんでした(民数記13章1節及び27節ー14章2節及び28節ー29節)。ヨシュアの世代になると、主のことばに従い約束の地に入ることができたのですが、ヨシュアの世代の次の世代士師記の時代になると、「そのころ、イスラエルには王がなくて、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21章25節)」と語っているように、「王の王。主の主」である神を忘れサムソンの時代には「ペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。」と神を王として認めないほど霊的に堕落していたのでした。今日の聖句は「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。」と、「シオン」すなわち教会に語っています。キリスト者も教会もイエス様は「王の王。主の主」であることを、どんな罪も赦し取り除いてくださることを、すべてのことを働かせて益としてくださる恵みと愛に満ちておられる方であるという良い知らせを人々にお分かちし、福音宣教の働きも日常生活も自分を王座に置くのではなく、主イエス様に導いていただこうではありませんか。