私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ人への手紙6章6節-7節)

1.ルカの福音書9章18節ー23節
2.ローマ人への手紙6章17節ー23節
3.エペソ人への手紙2章1節ー10節
4.コロサイ人への手紙2章20節ー3章11節

パウロは「律法が入って来たのは、違反がまし加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主要イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ人への手紙5章20節ー21節)」と、驚くべき恵みの世界を語ってから、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と、いのち、すなわちイエス様を信じたことによってによって与えられたゾーエのいのちにあって新しい歩みをするためのバプテスマであったことを語ってから「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」とキリスト者知っておくべきことを語ってから、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と、恵みに生きることを奨励しています。ところで、イエス様が十字架を負ったのは一度だけでしたが、イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカの福音書9章22節ー23節)」と、日々自分の十字架を負うように仰せられたのですが、それは日々、自分に生きるのではなく、キリストに生きることを、過ちを犯した時には、過ちを犯した自分を見て後悔するような人生を歩むのではなく、恵みの座に出て十字架の恵みを、罪の増し加わるところには恵みも満ちあふれることを思い起こし、すべてのことを益にしてくださる主に過ちを明け渡し、主を誉めたたえて生きるようにしようではありませんか。