信仰がなくては神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11章6節)
1.ルカの福音書22章31節ー34節
2.使徒の働き3章1節ー16節
3.ローマ人への手紙8章3節ー8節
4.コリント人への手紙第二13章1節ー6節
今日の聖句は「信仰がなくては神に喜ばれることができません。」と語ってから、「神に近づく者は、」すなわち、私たちが願いや祈りを捧げるとき、「神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、」と、知識として知っているのではなく、主の御前で願いや祈りを捧げていることを、主は願いや祈りをお聞きくださることを「信じなければならないのです。」と、信じて祈っているのかどうか吟味するように警告しています。一方、パウロは「肉にある者は神を喜ばせることができません。(ローマ人への手紙8章8節)」と語っています。ところでパウロはコリントのキリスト者に対して「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、『私はパウロにつく』と言えば。別の人は、『私はアポロに』と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。(コリント人への手紙第一3章1節ー4節)」と、「肉」とは、「自分」に生きることであることを語っています。コリントの教会にはパウロを見下げるような人がおられたので「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(コリント人への手紙第二13章5節)」と、どのような信仰に生きているのかを吟味するように勧告しています。それは、イエス様がペテロに「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と、信仰をなくすような状態に陥ることを話されたにもかかわらず、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と豪語したペテロのように自分を誇っていないかどうかを吟味することではないでしょうか。結局ペテロはイエス様が預言されたように三度イエス様を知らない、と言って挫折したのですが(ルカの福音書22章31節ー62節)、その結果、信仰はキリストによって与えられるものであることを知る者となられ(使徒の働き3章16節)、「あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです(ペテロの手紙第一1章21節)」と語っています。ヘブル人への手紙12章2節が「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と語っているように、十字架の恵みから落ちこぼれないように、私たちの信仰を完成するのは自分の努力ではないので、自分から目を離して、主が喜ばれるように、「私の信仰」ではなく、今与えられている信仰に立って、私たちの信仰を完成させてくださるイエス様を仰ぎ見て生きるように心がけようではありませんか。
