私は生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。(詩篇116篇9節)

1.詩篇16篇1節ー9節
2.箴言3章3節ー6節
3.ヨハネの手紙第一3章18節ー20節
4.ヘブル人への手紙12章2節ー3節

詩篇116篇の冒頭1節で「私は主を愛する。」とまず語ってから「主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。」と、私たちの神は 耳があっても聞くことができないような人の手によって造られた偶像と違って、私たちの願いや祈りを聞いてくださる方であり、「主は情け深く、正しくい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。」と神の神性を語るとともに「主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。」と、主の守りと救いを証してから「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」と、自分に言い聞かせてから「私は生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。」と決心していますが、それは主を愛する生き方になるのではないでしょうか。パウロは「満ち足りた心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(テモテへの手紙第一6章6節ー10節)」と警告しています。主を信じているにも関わらず満ち足りた心を持つことができない原因は、主の御前を歩まない、すなわち主を考慮せず、自分の欲望やこの世のものに心が奪われてしまうからではないでしょうか。思い煩いや恐れに襲われたり、欲に支配されて心の飢え渇きを覚えたりする時、私たちに何が必要なのかを私たち以上に一番良くご存知なのは神であることを(マタイの福音書6章8節)、私たちの全生涯の過ちや罪に対する罰を私たちの代わりに十字架の死をもって私たちのためにいのちをもささげてくださった良い羊飼いであるイエス様がいつも一緒にいてくださることを、日々私たちを導いてくださっていることを思い起こし、主の御前に心を安らかに(ヨハネの手紙第一3章19節ー20節)生きるようにしようではありませんか。