私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。(詩篇62篇1節)
1.ヨシュア記6章2節―20節
2.詩篇イザヤ書40章27節ー31節
3.哀歌3章22節ー26節
4.ペテロの手紙第一1章18節ー21節
ソロモンは「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠(口語訳:永遠の思い)を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節)」と、時は神の御手にあることを、神のなさることを人は理解できないことを語っています。ですから、主から「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐに上っていかなければならない。」と、戦略と勝利を与えることを約束されたヨシュアは民に「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」と、声をあげる時が来るまでの六日間は黙することを命じられたのは、民が不信の罪を犯さないためであったのではないでしょうか。民は、主が約束された地を目の前にしながら、約束の地について悪く言いふらした者たちのことばを信じ、主を信頼するよりも「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」 と言って不信の罪を犯しただけでなく、「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。」と助言したヨシュアとカレブを殺そうとしたので、主は約束の地に入ることができるのはヨシュアとカレブだけで、そのほかの二十歳以上の者は彼らが願ったように荒野で死ぬ、と仰せられたのでした(民数記13章32節ー14章1節ー9節及び29節)。信仰の完成者である主ご自身を仰ぎ見るよりも、今置かれている状況や自分に、自分の生き方に目が向いて、悲観的な思いに支配されてしまうようなことがないように、信仰はキリストによって与えられるものであること(使徒の働き3章16節)を忘れずに、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」と語ったダビデのように、主を仰ぎ見て生きるようにしようではありませんか。
