私の祈りが御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。(詩編141篇2節)

1.列王記第一8章22節ー23節
2.詩篇63篇1節ー8節
3.詩篇134篇1節-3節
4.テモテへの手紙第一2章5節ー8節  

手を上げるという行為は、学校の授業中であれば、答えがわかった人は手を上げますし、何かを抗議するときにも手を上げますし、時には怒って手を上げますが、詩篇134篇2節が「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」と命じておられるように、また、後方からエジプト軍、前方には江海と四面楚歌のような状態にイスラエルの民が陥ったとき、主は「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。」と仰せられたようにモーセが行うと紅海の海水が二つに分けられ、主が仰せられたようにイスラエルの民はかわいた地を進んで対岸に渡ったように(出エジプト記14章16節ー22節)、聖書は、手を上げる行為は、神との関係の中で用いるべきことを教えています。パウロは「まず、初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」と勧めてから「そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」と語ってから「ですから、私は願うのです。男が怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と、手を上げる行為に気をつけることを命じておられます。ダビデは「私の祈りが御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」と、一日が終わろうとしている夕べに手を上げて祈る祈りが主の御前に香となるように祈っておられます。夕方、一日を振り返って、悔やむようなことあったら恵みの座に出て、そのために十字架があること、すべてのことを益としてしてくださる主が祈っていてくださることを思い起こし、祈りが香り良き薫香として(黙示録5章8節)主に届くように、手を上げて感謝の祈りを捧げるとともに主をほめたたえるようにしようではありませんか。