あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙第一6章19節ー20節)
1.列王記第一8章10節ー11節
2.コリント人への手紙第二3章6節ー18節
3.エペソ人への手紙2章20節ー22節
4.ペテロの手紙第一5章7節-10節
この世が与えることのできる栄光はスポーツにおいて顕著に見られるように、努力によって勝ち取っていくようなもので、強者に与えられがちですが、ソロモンが「私は再び、日の下を見たが、競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵のある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(伝道者の書9章11節)」と、語っているように「日の下」、すなわちこの世においては保証がないことを語っていますし、この世の栄光は一時的なものですが、ペテロは驚くべきことに「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(ペテロの手紙第一5章10節)」と、すべてのキリスト者には行いや努力によってではなく、恵みによって永遠の栄光が与えらていることを語っています。荒野を旅する時には幕屋の至聖所において、列王記第一8章10節ー11節に「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」とあるように、主の栄光は宮に満ちたのでした。キリストのからだであり、主の宮である教会に主の栄光が現されるために、「私」に生きていたコリントの教会にパウロが「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と勧告していているように、この世の霊ではなく、神からの霊である御霊が与えられていることを忘れずに、「私」ではなく、キリストにある者として生活するように心がけようではありませんか。
