俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(テモテへの手紙第一4章7節―8節)

1.伝道者の書12章9節ー14節
2.コロサイ人への手紙2章1節ー3章10節
3. テモテへの手紙第一6章1節ー11節
4.ペテロの手紙第二1章1節ー15節

パウロは「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」と、まず、空想話、すなわち、想像力を働かせてあれこれ考えて「ああでもない、こうでもない」というような、よりどころのない話を避けるように語っているのは、天気予報のようにある程度のことを予測することはできますが、いつ何が起こるのかを人は知らないからであり(箴言27章1節)、「空想」とは字のごとく空しいものだからではないでしょうか。次に、敬虔のために自分を鍛練するように勧めてから「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、」と、健康を維持するためには益となるかもしれませんが、「いくらか」と語っているのは、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないからではないでしょうか(コロサイ人への手紙2章20節ー23節)。一方「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」と、現在と未来が保証されている敬虔こそが、すべてに有益ものであることを語っています。パウロが「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と語っているように、キリスト者はこの世では恵みとまことを実現してくださったキリストにあって生き、死ぬことが益なのは、イエス様が復活されたように、栄光のからだに変えられ主と共に死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない御国に入る門のようなものだかではないでしょうか。パウロは敬虔を利得の手段と考える人たちがいることを語ってから「満ち足りた心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(テモテへの手紙第一6章5節ー6節)」と語っています。神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、永遠のいのちが与えられていること、その保証として御霊が与えられていることを忘れずに、単なる敬虔さではなく、まことのいのちを与えてくださった主を心から敬い、恵みから落ちないように、主をほめたたえて生きるようにしようではありませんか。