私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネの福音書1章16節ー17節)
1.詩篇136篇1節ー26節
2.ローマ人への手紙5章17節ー21節
3.エペソ人への手紙2章1節ー10節
4.テモテへの手紙第一1章13節ー14節
ヨハネは「ことばは人となって、私たの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と、イエス様がどのような方なのかを語ってから「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と「この方」、すなわち恵みとまことに満ちておられるイエス様と歩む人生について語ると共jに、その理由を「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と語っています。律法による自分の義に生きていた時のパウロは恵みの世界を知らずにキリスト者を迫害していましたが、キリスト者になり、死をもたらす罪やサタンの支配、罪に対する刑罰、神の怒りから救われる道はキリストにあり、行いによるものではなく恵みによるものであることを悟られ、興味深いことに「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ人への手紙5章20節)」と、不思議な発言をしていますが、それは、ヘブル人への手紙10章14節が「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」と語っているように、イエス様は私たちの全生涯の過ちを背負ってくださり十字架の死をもって解放してくださったからではないでしょうか。ヨハネは自分の心が責めるようなことがあっても主の御前では心を安らかに生きることを勧めていまるように(ヨハネの手紙第一3章19節ー20節)、自分の心が責めるたびに十字架を思い起こし、恵みの上に恵みが満ち溢れるように、恵みの中にとどまって生きるようにしようではありませんか。