私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一12章3節)
1.マタイの福音書12章15節ー37 節
2.ヨハネの福音書16章12節ー15節
3.コリント人への手紙第一2章7節ー16節
4.コリント人への手紙第一6章19節ー20節
夜、イエス様を訪ねて「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」と申し上げたユダヤ人の指導者ニコデモに「まことに、まことに、あなたの告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と仰せられましたが、そのことを理解できませんでした( ヨハネの福音書3章1節ー15節)。ですから、キリスト者となり聖霊に満たされたパウロは「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」と語るとともに(コリント人への手紙第一2章14節)、「私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」と語っているのは、聖霊が与えられているキリスト者であっても、聖霊の宮であることを忘れていたコリントのキリスト者のように「私」に生き、世の人々と同じように生きてしまう弱さを抱えているのではないでしょうか(コリント人への手紙第一6章19節及び3章1節ー5節)。イエス様から「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われたトマスが「私の主。私の神」と告白するとイエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と仰せられました(ヨハネの福音書20章24節ー29節)。パウロが「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と勧めているように(ガラテヤ人への手紙5章16節)、御霊によって歩むために「私」ではなく「イエスは主です。」と告白して生きるようにしようではありませんか。