いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)

1.ヨハネの福音書16章19節ー24節
2.使徒の働き5章21節ー29節
3.テサロニケへの手紙第一5章15節ー16節
4.ペテロの手紙第一4章12節ー19節

イエス様は「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」と話された意味がわからなかった弟子たちに「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れていまします。」と出産を例にあげてから「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16章21節ー22節)」と苦悩することがあっても、悲しみがあっても、それらのことを飲み込んでしまうほどの喜びが与えられるだけでなく、その喜びを保証をされたのですが、その保証の確実さはパウロが「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、またケパに現れ、それから十二弟子たちに現れたことです(コリント人への手紙第一15章3節ー5節)」と語っているように、十字架の死と復活によるものだからではないでしょうか。ですから捕らわれの身でありながら「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と、単に喜ぶのではなく「主にあって」と勧めておられるのではないでしょうか。全生涯の罪が赦され、永遠のいのちが与えられていることを喜ぼうではありませんか。