アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山に備えがある」と言われている。(創世記22章14節)

1.コリント人への手紙第一10章1節―13節
2. ヘブル人への手紙11章17節―19節
3.ヤコブの手紙1章1節―4節
4.ペテロの手紙第一1章5節―7節

聖霊に満たされたイエス様は悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野に上って行かれ、悪魔の試みにみことばをもって勝利されると御霊の力に満たされてから宣教の働きをされたのでした(ルカの福音書4章1節―21節)。一方創世記3章には神からの警告を直接聞いていなかったエバに対して悪魔は神のことばを完全に否定して善悪の知識の木から取って食べるように、すなわち罪を犯すように誘惑したのでした。ですからイエス様が「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。(マタイの福音書6章13節)」と祈るように勧められたのは、悪魔の試み、すなわち罪を犯させるような悪魔の誘惑から守られるためであったのではないでしょうか。主はアブラハムが主のことばに従うかどうかを試みられ、イサクを一つの山で全焼のささげ物として献げるように仰せられたのでした。イサクから「火と薪はありますが、全焼の捧げ物にする羊は、どこにいるのですか。」と尋ねられましたが、アブラハムは「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」と答えたのでした。彼は「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる(創世記21章12節)」と仰せられた主の約束を握って主が仰せられたようにイサクを縛って祭壇の上に乗せて刃物を取り、息子を屠ろうとしたとき、「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」と仰せられ、一匹の牡羊を備えておられたでした。パウロは耐えられない試練にあわせないばかりか、耐えられるように脱出の道を備えてくださいます(コリント人への手紙第一10章13節)と語っています。主は試みることはあっても罪を犯すように誘惑される方ではないことを、神は私たちの信仰が完成するために何が必要であるのかをご存知な方であることを心に据えるとともに、必要なものを備えてくださる主をほめたたえようではありませんか。