満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。(テモテへの手紙第一6章6節)

1.ローマ人への手紙8章28節―32節
2.コリント人への手紙第二6章1節―10節
3.エペソ人への手紙1章3節―14節
4.ヨハネの手紙第一2章15節―17節

人はとかく自分に欠けているものが満たされれば満ち足りる心を持つことができるかのように思いがちですが、ソロモンは「愚かさを身につけて」と、神を考慮しない世の人々と同じような生き方を試みられ、「自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益となるものはない。」(伝道者の書2章3節―11節)と、シバの女王がソロモンを訪問した時、彼の知恵や豪華絢爛さに驚いたほど(列王記第一10章1節―29節)この世が与えることができるものをすべて持っていたにもかかわらず一時的には人生を楽しむことができても、日の下、すなわちこの世は益となるものがないと語るとともに「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と結論づけたのでした。この世の豊かさや知恵は死に対しては無力です。この世に生きている限り、この世のものは必要ですが、欲に支配されると主によって与えられている霊的祝福を忘れ、イエス様を信じていても世の人々と同じような価値観にとらわれて他者と自分を比較して優越感や劣等感の間を行ったり来たりするような心の安定を欠いた状態に陥ってしまうのではないでしょうか。今日の聖句「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」を心に据えてダビデが「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と告白しているように主は必要なものは与えてくださることを、すべてのことを益としてくださることを感謝して生きようではありませんか。