どうか、平和の神ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。(テサロニケへの手紙第二3章16節)

1.イザヤ書9章6節―7節
2.ローマ人への手紙4章25節―5章1節
3.ピリピ人への手紙4章6節―7節
4.テサロニケへの手紙第一5章23節―24節

イスラエルの民は数々の意驚くべき奇蹟を体験しただけでなく、荒野を旅するときも主は、昼は、約束の地への途上において彼らを導くため昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中におられて民の前を進まれいつもともにおられたもかかわらず、神の偉大さを忘れ、人を恐れ、不信仰に陥ってしまい、主を信頼して「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。」と励ましたヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたのでした。キリスト者には平和の君であるイエス様が聖霊なる神として内住しておられ、いつもともにいてくださる方であるにもかかわらず、予定外や予想外の事が起こると、祈るよりも先に心が騒いでパニック状態に陥ってしまうのではないでしょうか。パウロは迫害に会っているテサロニケのキリスト者たちのために「どうか、平和の神ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」と祈られましたが、それはすべてのキリスト者に必要な祈りではないでしょうか。パウロは「何も思い煩わないで、あらゆる場安に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4章6節―7節)」と勧めています。イエス様は「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイの福音書10章29節―30節)。」と仰せられました。ですから、どんな場合にも、主権は神にあり、平和(平安)を与えてくださるのは神であること、主がいつもともにおられることを忘れず、すべての思い煩いを主に正直に申し上げて祈ろうではありませんか。