わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ書43章7節)

1.エレミヤ書18章1節ー6節
2.コリント人への手紙第一6章12節ー20節
3.コリント人への手紙第二5章17節ー18節
4.エペソ人への手紙2章1節ー10節

人はとかく自分の栄光を求めて生きてしまいがちですが、そのような生き方の要因をパウロが「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ人への手紙3章19節)」と語っているように、欲望に支配され、地上のことしか考えられないため、その結果この世が与えることのできる栄光を求めているのではないでしょうか。しかし、今日の聖句はなんと「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」と、主の名によって呼ばれるすべての人は、この世の栄光ではなく、主の栄光、すなわち永遠の神の栄光のために、私たちの行いによるのではなく、主ご自身によるものであることを語っています。ところで、今日の聖句の前句であるイザヤ書43章1節は「今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」と、主の名で呼ばれるためには主によって贖われる必要があることを語っています。ところで、パウロが「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(テモテへの手紙第一2章6節)」と語っているように、全てのキリスト者はキリストによって贖われた者であり、聖霊の宮とされているだけでなく、主の栄光のためにキリスト・イエスにあって新しく造られた者であることを心に据えて、主の栄光のために主が喜ばれるように生きように心がけようではありませんか。