主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(詩篇23 篇1節)

1.ネヘミヤ記9章5節ー21節
2.詩篇34篇9節ー10節
3.ローマ人への手紙8章28節ー32節
4.コリント人への手紙第二6章1節ー10節

イエス様は、群衆に、パリサイ人のパン種、すなわち教え(マタイの福音書16章12節)に気をつけるように語るとともに神と人との関係をについて、罪の赦しなど霊的なことを話したのにもかかわらず、群衆の中のひとりが「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と申し上げたので、イエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」と言われてから、群衆に対して「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しないさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と話されました。(ルカの福音書12章1節―15節)。パウロは欲望が神になってから(ピリピ人への手紙3章18節―19節)、「乏しいからこう言うのではありません。私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽きることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。(ピリピ人への手紙4章11節―12節)」と証し、テモテには「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(テモテへの手紙第一6章6節)」と教えられました。イスラエルの民は主がどんなに偉大な方であるかを体験していたにもかかわらず、欲に支配されると不平不満をもらし、恐れに支配されると主を信頼しないで「エジプトの地で死んでいた方がよかったのに。できればこの荒野で死んだ方がましだ。」などとつぶやいたのですが、主は荒野での四十年間、人々のすべての必要を満たされたのでした。主は私たちに必要なものをよくご存じです。死をもたらした欲から解放されるために、必要なものであるなら、主は与えてくださるという信仰をもって、ダビデのよに「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と、ダビデのように主がどのような方であるかを忘れずに良き羊飼いである主を誉めたたえて生きようではありませんか。