主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二12章9節-10節)

1.コリント人への手紙第一2章1節ー4節
2.コリント人への手紙第一3章13節ー4章5節
3.コリント人への手紙第一15章3節ー10節
4.ピリピ人への手紙4章12節ー13節

パウロはエペソの聖徒たちのために「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と祈られたように、神はキリスト者にご自身の力やこの世や人の知恵では理解できないことを悟らせてくださるのですが、そのためには今日の聖句が語っているように神の恵みを深く知る必要があるのではないでしょうか。パウロは肉体に与えられたひとつのとげを去らせてくださるように三度祈りましたが、主からの答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」ということばで、彼の願いはかないませんでしたが、彼は主の言われたことを素直に受け入れ、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と自分の弱さを認めた上で「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と語ったのですが、それは「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(コリント人への手紙第一2章3節―5節)」と告白しているように、弱さ中に働かれる御霊と神の力を体験していたからではないでしょうか。自分の弱さを覚えたり、恐れたりするような時にこそ、自己憐憫に陥らないように、恵みによって救われていること、主がどんなときにも一緒にいてくださることを思い起こすなら「私が弱いときにこそ、私は強い」と言われたパウロのように、御霊が働かれて神からの力が与えられるのではないでしょうか。