謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(箴言22章4節)
1.列王記第一3章3節ー14節
2.箴言3章1節ー10節
3.ローマ人への手紙11章33節ー12章12節
4.ヘブル人への手紙11章24節ー26節
一般的に他者と自分を比較して自分を他者よりも劣ったものと考え卑下することが謙遜のように思われがちですが、辞典に「卑下」とは「自分を劣ったものとしていやしめることや、いやしめて見下すことという意味があります。」とあるように、相手によって態度が変わってしまうもろさがあるのではないでしょうか。ですから、人はこの世の富や人からの誉れを得るために努力を重ねたり、さまざまな手段を使って手に入れようとし、それを手に入と、全知全能の神を知らないと、それを手に入れ自己満足にひたると、見かけは謙遜そうに見えても、心の中に高慢さを秘めるような弱さを人は持っているのではないでしょうか。しかも、この世や人の知恵は死に勝利するいのちを与えることはできません。主は「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行うものであり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げー(エレミヤ書9章24節)」と仰せられました。本当の意味での謙遜は、神がどのような方であるか、どんな偉大な方であるかを知ることによって、神と自分との関係の中でつちかわれるものではないでしょうか。ところで、イエス様はスミルナの教会に「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている。―しかしあなたがたは実際は富んでいるー(黙示録2章9節)」と仰せられました。今日の聖句「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」を心に据えて、世の人々が求めている以上の富や誉、すなわち、主からの称賛が届くことを(コリント人への手紙第一4章5節)、永遠のいのちが与えられていることを感謝し、十字架の主を仰ぎ見て謙遜を身につけ(ペテロの手紙5章5節)、主を忘れ自我に生きて問題を抱えたような時には、愛とまことに満ちておられる主に立ち返り、主の偉大さを思い起こして生きようではありませんか。