互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)

1.マタイの福音書6章9節ー14節
2.ヨハネの福音書13章1節ー15節
3.ヨハネの福音書15章4節ー12節
4.エペソ人への手紙426節―32

イエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15章12節)」と仰せられましたが、主はどのように愛されたのかを、主が弟子たちの足を洗われたときのペテロの会話に見ることができるのではないでしょうか。足を洗う行為は奴隷の仕事でしたので、イエス様がペテロの足を洗おうとした時、ペテロが「決して私の足をお洗にならないでください。」と申し上げると、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われたので、「主よ。私の足だけでなく、手も頭を洗ってください。」と申し上げると、「水浴したものは、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と、すなわち日々の歩みを主との関わりを持つことによった与えられるきよめが必要であることを、「みながそうではありません。」とイエス様を信じでいないユダのことを言及したのでした。ペテロの足を洗われてから、イエス様は「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」と命じられました。イエス様は十字架で神の愛を示されましたが、それは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなして祈られたように「神の愛」は「赦し」ではないでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様に「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左に座らせてください。」申し上げたのを聞いた他の弟子たちが腹を立てたように、聖霊に満たされていないと、人は自我を持っているので自分のことしか考えられないような状態に陥ってしまい、人間関係にひずみが起きてしまうのではないでしょうか。そのような時、ヤコブの手紙3章2節が「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。」と語っているように、自分も失敗する者であることを自覚するとともに、全生涯の罪が赦されているだけでなく取り除かれていることを、主が日々足を洗っていてくださる、すなわち罪に定められないようにとりなして祈っていてくださることを思い起こして、パウロが「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」と勧めているように、神の愛に生きるためにお互いに弱さがあることを認め合い、互いに赦し合いながら生きようではありませんか。