兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ人への手紙5章13節)

1.ヨハネの福音書13章1節ー15節
2.ローマ人への手紙6章13節ー23節
3.ローマ人への手紙8章3節ー18節
4.ガラテヤ人への手紙5章16節―24節

主はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章16節―17節)」と仰せられたことばに、人には自由意志が与えられていることと、神のことばに従順に生きることを願っている神の姿がありますが、神のことばを完全に否定して偽りを持って食べるように誘惑した悪魔のことばを信じて与えられていた自由意志を欲を満たすために食べた結果、神が仰せられたように、人類に死が入っただけでなく、主から「食べてはならないと、命じておいた木から食べたのか。」と問われたアダムは責任をエバに負わせてアダムとエバとの関係が変わってしまったのでした(創世記2章23節―3章15節)。世の人々の一般的な考えでの「自由」は強制や束縛を受けずに、士師記の時代のように、神の存在を知りながらもめいめいが自分の目に正しいと見えることを行えることのように思われがちですが(士師記21章25節)、実は罪と死、サタンに支配され、自責の念や罪悪感に悩まされるようなことを経験しながら、本当の自由を知らずに他者と自分を比較して、優越感に浸ったり、劣等感に悩まされたりしながら自己実現を目ざすような生き方をするために、他者や、時には自分をも愛せないような状態に陥って悩んでしまうのではないでしょうか。主はそのようなすべてのことから私たちを自由にしてくださったのですが、それは十字架で示された神の愛によるものでした。今日の聖句「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」を実践するために、自分を喜ばせるような肉の思いが襲ってきた時、御霊の実である神の愛に生きるために、人の知恵や力では得ることができない自由を与えるためにご自身をささげられただけでなく、この世にあってキリスト者が互いに仕えあうように、奴隷の仕事である足を洗う行為を弟子たちにされたて模範を示され、今もとりなしていてくださるイエス様を、神の愛が聖霊によって与えられていることを思い起こし、主が喜ばれるように生きようではありませんか。