陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ書18章4節)

1.イザヤ書64章1節ー8節
2.ローマ人への手紙8章18節ー30節
3.ローマ人への手紙9章15節ー24節
4.ヘブル人への手紙12章2節―11節

世の人々は自分の栄光を求めて努力をし、鍛錬をしますが、神の栄光を現すために、キリスト者は神の栄光を誉めたたえるために、平安な義の実を結ぶために主が訓練されることをヘブル人への手紙12章11節は語っています。パウロが「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(2017年訳)」と勧めているにもかかわらず、キリスト者はこの世に遣わされた者であるにもかかわらず、自由意志が与えられているために、日々の生活において世の人々と同じように神よりも自分を喜ばせようとしたり、人からの栄誉を求めたりしてしまうようなことをしてしまうのではないでしょうか。パウロはコリントの聖徒たちに、ことばといい、知識といい、すべてにおいて豊かにされただけでなくキリストについての確かなあかしを持ち、どんな賜物にも欠けるところがなくイエス・キリストの現れを待っていながら、「私はパウロにつく」「私はアポロに」と言っているなら、肉に属し、ただの人のように歩んでいることになることを指摘され、「たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」と書き送りました。不安を覚えて心配したり、試練にあって苦しんだり、思い悩むような時こそ、今日の聖句「陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」を思い起こし、陶器師、すなわち主は、主ご自身が気に入る器に作り替えようとされておられることを、キリスト者は主の御手の中にあることを、主の主権を認めて生きようではありませんか。