どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにおられますように。(テサロニケへの手紙第二3章16節)

1.イザヤ書9章6節ー7節
2.ローマ人への手紙16章17 節ー20節
3.ピリピ人への手紙4章6節ー9節
4.ヘブル人への手紙13章20節ー21節

イエス様は弟子たちに「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。」と迫害されることを話されるとともに、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。」と、イエス様は助け主である御霊が与えられることを(ヨハネの福音書16章1節―13節)、しかも御霊はいつまでもキリスト者とともにおられることを語られました(ヨハネの福音書14章16節)。ところで、イエス様はこの世が与えることのできない平安を与えてくださることを約束されましたし(ヨハネの福音書14章27節)、イエス様は聖霊なる神としてキリスト者の心に内住しておられ、助け主である聖霊はいつまでもともにおられることを約束されたのに、パウロは「どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにおられますように。」と祈っています。サタンはキリスト者に触れることはできませんが、人災や自然災害、病いをもってキリスト者を試みますが、そのような時、平和の神はその試みさえも益としてくださることを、平安は主が与えてくださるものであることを心に据え、肉の思いに走って御霊を悲しませたり、御霊を消したりするようなこと、すなわち、御霊が働けないような状態に陥ってしまうようなことがあるためにパウロは祈られたのではないでしょうか。私たちもお互いのためにパウロの祈りに心を合わせて祈ろうではありませんか。