主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。(詩篇145篇3節)

1.伝道者の書311
2.イザヤ書44章6節―23節
3.イザヤ書556節―11
4.ローマ人への手紙1125節―36

箴言29章25節が「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」と語っているように、イスラエルの民は数々の奇蹟を体験し、主がどんな偉大な方であるかを知っていたはずなのに、約束の地であるエモリ人の山地にまで来たにもかかわらず、モーセが「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言う民の意見に同意して約束の地を探りに行かせた結果(申命記1章19節―23節)、ヨシュアとカレブ以外の者は、約束の地について悪く言いふらしだけでなく「そこで、私たちはネフィルム人、ネフィルムのアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と言ったために、民は、人を恐れ、「主の偉大さを忘れる」というわなに陥り、エジプトで死んでいたらよかったのに、できれな、この荒野で死んだほうがましだ、エジプトに帰ろうと言い出し、主を信頼して「主にそむいてはならない。」と助言したヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたので、主が介入されヨシュアとカレブ以外の主につぶやいた二十歳以上の者たちは彼らが願ったように荒野で亡くなること、モーセも約束の地を見ても入れない、と言われたのでした(民数記13章32節―14章29節)。モーセは約束の地に入る民に荒野の旅は苦しいものであったけれどもそれはしあわせにするためであったことを、主を忘れることがないように、主を心に据えて生きるように勧告しました(申命記8章11節―18節)。主はどんなことも私たちの益となるようにお働きくださる偉大な方であることを忘れずに、主をほめたたえることができないような状態にある時、主の偉大さを思い返して賛美のいけにえをささげ、主をほめたたえるなら(ヘブル人への手紙13章15節)、主は私たちが考えもしなかったようなことをされてご自身の栄光を現されるのではないでしょうか。