神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

1.使徒の働き26章9節ー23節
2.コリント人への手紙第一153節―10
3.エペソ人への手紙38節―19
4.ピリピ人への手紙32節―16

主は永遠の方ですべてを、アダムを創造される前からすでにアダムが罪を犯すことをご存知であったはずなのにどうして人を創造されたのかと、思い悩みながら、もしアダムが罪を犯さなかったら、どうなっていたのだろうか、ということも考えて見ました。そのような中で、飛躍しすぎているかも知れませんが、もしアダムが罪を犯していなかったなら、イエス様が人としてこの世に遣わされ十字架の刑を受ける必要がなく、神との関係が創造者と被造物という関係にすぎず、神の子という立場は実現しなかったのではないか、と思わされるとともにエペソ人への手紙1章3節―4節に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあり、はかりしれない神の永遠のご計画を思わされました。キリスト者を、教会を迫害していたパウロがキリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの途上でイエス様から声をかけられ、アナニヤによってバプテスマを受け(使徒の働き9章3節ー17節)、神の義を知る者、使徒となり、福音宣教の働きだけでなくさまざまな教会に書簡をもって福音の奥義を解き明かすような働きをするようになることなど彼自身考えもつかなかったことではないでしょうか。ですから彼は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と、自分だけでなく、キリスト者は「知っているでしょう。」と語っているのではないでしょうか。私たちの良心が責めるようなことでも、それを主の御手にゆだねるなら、それを益としてくださる神であることを忘れずに、恵みとまことに満ちておられる主をほめたたえようではありませんか。