憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれがたちはだかることができようか。(箴言27章4節)

1.マタイの福音書2711節―18
2.ローマ人への手紙1311節―14節
3.コリント人への手紙第一31節―9
4.ガラテヤ人への手紙5章16節―24節

最初の殺人はカインがアベルを殺害したことですが、アベルと彼のささげ物に主が目を留められたのに、自分と自分のささげ物に目を留められなかったことに端を発していますが、アベルは羊の最上の初子をささげたのですが、カインのささげものに関して初穂とも最上のもと、ということは書かれていません。サウルはダビデを非常に愛し戦士の長としたのですが、ペリシテ人と戦いに勝利して凱旋したとき、女性たちが喜び踊り、笑いながら「主がサウルとダビデを用いて勝利を与えられた」と主を賛美したのではなく、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と繰り返して歌ったために「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と言い、その日からダビデを疑いの目で見るようになり、愛が憎しみに変わり、ダビデを殺害することが彼の人生の目的になってしまったのでしたが、カインにしてもサウルにしてもその根底にねたみがあったのではないでしょうか。イエス様を十字架にかけるように群衆を煽動した祭司長、長老たちの動機は「ねたみ」からであったことにピラトは気づかれたのでした。カインにしてもサウルにしても憤りや怒りを引き起こすねたみがあったのではないでしょうか。昨夜、小田急線の車内で10人が重軽傷を負ったという惨事が、犯人の供述によると、電車内を見回して座っていた勝ち組っぽい女性を見つけて狙ったこと、その理由として「自分はくそみたいな人生」と自分が幸せでないために犯行に及んだことも報道されました。犯行の根底にあるのは「ねたみ」であることを思うとともに今日の聖句「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれがたちはだかることができようか。」を思い起こしました。メダル獲得の報道が毎日なされる中で彼のねたみはエスカレートしてしまったのではないか、とも思わされました。彼が刑務所で福音にふれて悔い改め、キリストの証人となることができるように願うとともに、私たちもねたみや党派心など肉の思いに支配されないように、ひとりひとりがキリストのからだを構成している一員であることを思い起こし、満ち足りる心を伴う敬虔に生きるために、信仰の完成者であり、恵みとまことに満ちてられる主を誉めたたえて生きようにしようではありませんか。