そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をしてこう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども彼らの行いをまねしてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイの福音書23章1節―3節)

1.コリント人への手紙第一1229節―1313
2.ガラテヤ人への手紙52節―6
3.ピリピ人への手紙23節―11
4.ヤコブの手紙4章1節―10節

イエス様は、自分を義人と自任し、他の人々を見下している者たちに対して「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けてようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書18章9節―14節)」と話されました。パリサイ人は断食をしたり、什一のささげ物をしたりしているにもかかわらず、神が義と認めなかったのは、律法による自分の義に生きて律法の中ではるかに重要な正義とあわれみと誠実をおろそかにして(マタイの福音書23章23節)、隣人を愛するというよりも、自分を高くしていたために実際は律法を守っていたことになっていなかったからではないでしょうか(ヤコブの手紙2章10節)。イエス様は今日の聖句をもって、律法学者やパリサイ人のように自分の義に生きて高ぶるようなことのないように仰せられたのではないでしょうか。全く罪がないにもかかわらず、罪人、すなわちすべての人(ローマ人への手紙3章23節)が救われるために多くの苦しみを受けられただけでなく、十字架の刑を受け入れていのちをも捧げられたイエス様のことを思うと、だれも自分を誇ることができないのではないでしょうか。キリスト者はひとりひとりがキリストの体の一部を構成している一員であることを、聖霊様のお働きによってみことばに生きることができるのも恵みであることをわきまえて、他のキリスト者と自分を比較して優越感に浸ったり、劣等感に悩むようなことのないようにしようではありませんか。