まことに主はこう仰せられる「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章10節―11節)

1.伝道者の書31節―11
2.ローマ人への手紙414節―55
3.ローマ人への手紙818節―30
4.ヘブル人への手紙122節―12

人は多くのことを計画しますが、必ずしも計画通りにことが運ぶわけではないことを政治家や一般市民に限らず、キリスト者もこのコロナ禍の中にあって経験していますが(コリンと人への手紙第一1013節)、キリスト者には脱出の道が用意されていることをパウロは語っています。今日の聖句は、捕囚となってバビロンに連れて行かれたユダヤ人に対して、主はエレミヤを介して、捕囚の期間は七十年であり、解放される時があること、エルサレムに帰還できる希望を与えられたのでした。しかも、それは主の幸いな約束に基づいたもので、神のご計画にそってなされることであり、その計画の目的は将来と希望を与えるものであることを語っています。ペテロは「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(ペテロの手紙第一13節)」と、将来と希望について語る人となり殉教の死をもいとわない信仰が与えられたのでした。新聖歌292番に「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら神様の愛は現れなかった。」とあります。苦しみやわざわいを否定的に考えがちになりますが、そのことによって神を求める心が起こされるだけでなく、神の愛や恵み、神の栄光を見る機会となることを心に据えて、すべてのことを働かせて益としてくださるだけでなく、イエス様の復活をもって死に勝利する永遠のいのちを明らかにされ、将来と希望を与えてくださる神を(ローマ人への手紙6章23節、ローマ人への手紙8章28節)人々が求めるように、リモートで福音に触れた方々が、やがて教会に集われるように祈ろうではありませんか。