神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節―34節)

1.ヨハネの福音書316節―18
2.コリント人への手紙第一318節―45
3.ヨハネの手紙第一18節―22
4.ヨハネの手紙第一3章18節―20節

神殿が完成したとき、イスラエル全集団の前で、主の祭壇の前に立ち両手を天に差し伸べて祈られた祈りの中でソロモンが「彼らがあなたに対して罪を犯したためー罪を犯さない人間はひとりもいないのですからー(列王記第一8章46節)」と、またヤコブが「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(ヤコブの手紙3章2節)」と語っているように、人はことばだけでなく行いによっても間違いを犯しやすい者ですが、自分の義に生きていると、自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてキリスト者を迫害していたパウロのように、他者を罪に定めるようなことをしてしまうのではないでしょうか。しかし、キリスト者になったパウロは自分の中に罪があることに気づかされ自分のみじめさを知らされましたが、今日の聖句が「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と語っているようにキリスト・イエスにある者が罪に定められないことを悟り(ローマ人への手紙7章18節―8章2節)、「私は自分で自分をさばくことさえしません。・・私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主はやみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章3節―5節)」と、全生涯の罪は十字架で処理されていることを考慮し、主によってもたらされた恩恵を語っています。パウロのようにみじめな思いが襲ってきたなら、恵みの座で心のうちを主に申し上げるとともに、神の子とされていることを、今日の聖句を思い起こし、十字架で示された神の愛のうちを歩むようにしようではありませんか。