キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル人への手紙10章14節)

1.ローマ人への手紙319節―26
2.ローマ人への手紙830節―34
3.ローマ人への手紙101節―13
4.コリント人への手紙第一15章3節―22節

ヘブル人への手紙10章1節「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」と神の民を完全にすることができないことを語っていますが、、その理由として同章4節は「雄牛とやぎの血は罪を取り除くことができません。」と語っていますが、バプテスマのヨハネはイエスについて「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と語っているように、イエス様は罪を赦されるだけでなく取り除いてくださるがゆえに今日の聖句は「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」と語っています。ですから、キリスト者は一生涯の罪が赦されているだけでなく取り除かれているので、神の前に完全な者とされているのですが、パウロがいつも善をしたい思いがあってもそれをいつも実行できないのは罪があるためであることに気づかされ「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくださるのでしょう。」と救いを求めていますが、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ人への手紙7章24節―8章2節)」と答えがキリストにあることを語っています。後悔するようなことを言ったり、行ったりして罪悪感や罪責感で悩まされるようなとき、ヘブル人への手紙4章14節が「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように恵の座で心のうちをすべて主に告白するとともに十字架によってすでに支払われていることを、イエス様は罪に定められないようにとりなしていてくださることを心に据えて自分を責めたり、罪に定めたりするよりも恵みによって救われていることを感謝し(エペソ人への手紙2章1節−9節)、信仰の完成者であるイエス様に目を留めて生きようではありませんか。