わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ書43章7節)

1.イザヤ書491節―3
2.コリント人への手紙第二413節―17
3.エペソ人への手紙13節―6
4.コロサイ人への手紙3章2節―4節

人は自分の栄光を求めて努力をしますが、「ライバル」と称する人々の存在がその原動力となっているように言われますが、その根底にある動機についてソロモンは「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(伝道者の書4章4節)」と、パウロは「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちをお手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ人への手紙3章17節―19節)」と、ねたみや欲望であることを語っています。これからオリンピックが開かれますが、かつては「参加することに意義がある。」と言われていたのに、いつの間にか、何回か銀メダルを得られた日本人の水泳選手が「金を取らなかったら意味がない。」と発言されたように、メダルを獲得することが目標になるような時代になりましたが、そのような栄光は恵みによって与えられる神の栄光と異なって永遠のものでないばかりか、パウロは恥と語っています。なぜなら、そのような栄光は主の前に誇ることができないばかりか、かえって罪が指摘されるからではないでしょうか。神の栄光は永遠のものであり、今日の聖句が「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」と語っているように、イスラエルの民と同様にすべてのキリスト者も主の栄光のために存在しているのではないでしょうか。与えられている主の栄光を輝かせるために、世と調子を合わせるのではなく、恵みによって救われていることを、永遠のいのちが与られていることを自覚し、いのちのことばをしっかり握って(ピリピ人への手紙2章14節ー16節)、主が喜ばれるように主をほめたたえて生きようではありませんか。