私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私はあなたの名で呼ばれているからです。(エレミヤ書15章16節)

1.詩篇1199節―16
2.詩篇11965節―77
3.詩篇119篇92節―94節

四十日四十夜断食をされてから空腹を覚えたイエス様に悪魔は「あなたが神の子なら、この石にパンになるように命じなさい。」と言って自分のことばに従うかを試みましたが、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の、口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」と申命記8章3節のみことばを引用して対処されたのですが、その主のことばから、体に食べ物が必要であるように、人が生きるためにはみことばが不可欠であることがわかります。人は空腹を覚えると何かを食べるように、今日の聖句が「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私はあなたの名で呼ばれているからです。」と語っているように、心の飢え渇きが満足するためにはみことばを食べる、すなわちみことばを喜んで受け入れ、みことばによって生きる必要があるのではないでしょうか。ペテロは「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。(ペテロの手紙第一1章23節)」と語ってから「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(ペテロの手紙第一2章2節)」と、生まれたばかりの新生児が生きるためには乳が必要かどうかというような問う余地はなく不可欠なものであるように、神のことばが必要かどうかではなく真に生きるためには、霊の乳である神のことばが不可欠であり、神のことばを求めるように勧めています。新生児はお腹が空くと泣いて乳を求め、乳が与えられると泣きやむだけでなく喜んで飲むのではないでしょうか。パウロは「いま私は、あなたがたを神とその恵のみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なる人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(使徒の働き20章32節)」とエペソの長老たちに遺言のように言い残したのでした。イエス様はキリスト者が主の御名の中に保たれるように祈られました(ヨハネの福音書17章11節)。キリスト者はこの世から贖われた者であることを心に留めて、エレミヤのように、この世や人の知恵ではなく神の知恵であるみことばに答えを求め、みことばが見つかった時の喜びを味わうような体験ができるように、すべてのことを教えてくださる、みことばを思い起こさせてくださる御霊(ヨハネの福音書14章26節)に助けていただこうではありませんか。