主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。(箴言21章30節−31節)

1.ローマ人への手紙718節―87
2.コリント人への手紙第一118節―25
3.エペソ人への手紙2章1節―10節

アダムとエバは神が禁じた善悪の知識の木から取って食べたことによって神が教えられなかったこと、すなわち、自分たちが裸であることを知り神である主の声を聞くと、主の御顔を避けて園の木の間に身を隠したのですが、主は「わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告―遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。ー主の御告―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告―(エレミヤ書23章23節―24節)」と仰せられたように、イスラエルの初代の王とされたサウルを人々が捜しても見つからなかったのですが、主は「見よ。彼は荷物の間に隠れている」とサウルがどこにいるのかを知らせたのでした。主は「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告―(エレミヤ書9章23節―24節)」と仰せられました。「地獄の沙汰も金次第」や、仏教の考えが入った民間信仰から人間が死んであの世に向かうときに渡る川を三途と言ったようで「三途の川も金次第」と、お金の威力を語っています。この世に生きる限り、お金は必要ですが、どんなにお金や富があっても誇らないように警告しています。なぜなら、今日の聖句が「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。」と語っているように、この世や人の知恵や力、富は罪や死から人を救うことができないからです。ダビデは多くの罪をおかしましたが「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ち望みます(詩篇130篇3節―5節)」と、罪の赦しを与えることのできる方は主以外におられないことを語りました。イエス様は、私たちの父なる神は、私たちたに何が必要であるかをご存知であることを話されました。パウロは神について「忍耐と励ましの神、望みの神、すべての慰めの神」と語っています。主は罪から救うだけけでなく、どんな状況にあってもその状況から救うことができる神であることを心に据えて、ダビデのように主を、みことばを待ち望もうではありませんか。