義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(詩篇45節)

1.箴言33節―7
2.マタイの福音書627節―33
3.ローマ人への手紙9章24節―33
4.ピリピ人への手紙3章2節―9節

神が「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」とアダムに警告したにもかかわらず、サタンは「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と神の警告を完全に否定しただけでなく、神が禁じた本当の理由を自分は知っているかのように語りかけたので、エバもアダムも善悪の知識の木から取って食べたのでした。確かに目が開かれて、自分たちが裸であること、すなわち神が教えなかったことを知り、自分たちの考えでいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいをつくり、神である主の声を聞くとふたりとも園の木の間に身を隠したのですが、アダムは隠れた理由を「私は裸なので、恐れて、隠れました。」と申し上げたので、神が「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と問われると、アダムもエバも謝罪するよりもアダムは神とエバに、エバは蛇、すなわちサタンに責任転嫁したのですが(創世記3章1節―13節)、そこにはすでに自分が悪いのではない、という意識があり、罪によって自分の義に生きる者となった姿を見ることができるのではないでしょうか。それ以来人は自分の義、すなわち自分の考えや感情、意志で生きる者となっているのではないでしょうか。伝道者の書7章16節は「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。(口語訳)」と自分の義や賢さが招く結果を語っています。パウロは自分の義に生きていた時にはキリスト者を迫害していましたが、イエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ(使徒の働き26章14節)」と声をかけられ、キリスト者なった彼は今日の聖句が「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」と、勧めているように、自分の義を捨てて神の義に生きる者、すなわち自分の考えではなく、また、スポーツ選手がよく「自分を信じて」と言われますが、自分ではなく主に拠り頼む、すなわち主ご自身を信頼し、みことばで生きる者となったのでした。自分の義に生きると高ぶりを招くことになるのではないでしょうか。自分の考えや思いを押し通そうとするのではなく、主が喜ばれるかどうかを吟味して判別するなら、それは義のいけにえささげることになるのではないでしょうか。