どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ人への手紙15章13節)

1.ローマ人への手紙4章15節―21
2.コリント人への手紙第一2章7節ー12節
3.テサロニケへの手紙第一1章1節ー7節

主は「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」と約束されたにもかかわらず、イサクを全焼のいけにえとして捧げるようにアブラハムに仰せられたのですが、彼は主の約束を信じてイサクを捧げようとされたのをご覧になって主は「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と仰せになり、一頭の雄羊を備えられたので、彼はその場所を「アドナイ・イルエ(主の山に備えがある)」と名づけたのでしたが、そのことに関してパウロは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」と語っています。福音書のペテロはイエス様から王権を与えると言われたので「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と申し上げましたが、イエス様が捕らえられるとイエス様を三度知らないと言い、三度目にイエス様が振り返ってペテロを見たとき、ペテロはイエス様が「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と仰せられたことを思い出して外に出て激しく鳴いたのでした。イエス様は何度もご自分の死と復活について弟子たちに打ち明けていましたが、彼らには理解できなかったのですが、イエス様が死人の中からよみがえられたことによってペテロは生ける希望を持っただけでなく、聖霊の力に満たされた弟子たちは迫害にあっても喜ぶような人に変えられたのでした。今日の聖句「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」は、私たちが信じている神は「望みの神」すなわち、私たちに望みを与えることのできる神であることを、私たちが喜びと平和に満たされるためには聖霊の力が必要であることを語っています。どんなことがあってもアブラハムのように主から与えられている信仰を働かせて、聖霊様の力によって自分の考えや思いを聖めていただき、みことばの約束を握り、どんなこともおできになる神を仰ぎ見て主を信頼して生きようではありませんか。