主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。(詩篇103篇14節)

1.創世記24節―7
2.コリント人への手紙第二46節―17
3.ヘブル人への手紙4章13節―16節

神のことばである聖書ははっきりと神が天地万物を創造されたこと、その全体像を創世記1章は語っており、創世記2 章には、あらゆる野の獣やあらゆる空の鳥も土から創造されたことなど、その詳細が書かれていますが、興味深いことに人の場合、創世記1章27節には「神は人をご自身のかたちとして創造された。」と創世記2章7節には「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と、他の被造物と異なった点があることをも明確に語っていますが、主がヨブに「知識もなく言い分を述べて摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。(ヨブ記38章2節―6節)」と仰せられたように、人は最後の被造物として創造されたために、どのようにして天と地、すなわち目で見える宇宙や地球が、動植物がどのように誕生したかを知らないために、謎とされ、いまだに地球誕生や生命の誕生を探求しているではないでしょうか。池上彰氏が創造論の博物館を紹介すると、ハーバート大学で比較宗教学を学んだというパトリック・ハーラン氏は「実にばかばかしい。ふつうに進化論を信じたほうが早い」などと発言されましたが、そこには神のことばよりもこの世や人の知恵をすぐれたものと考えている高ぶりを見ることができるのではないでしょうか。今日の聖句が「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」と語っているように、地球全体から見れば見えないような、風が吹けば吹き飛んでしまうような力のないちりのような存在であるにもかかわらず、私たちのことを心に留めていてくださる主がおられることを感謝するとともに、十字架につけられたイエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23章34節)」と人々のためにとりなされたように、人の知恵を誇り高ぶっておられる人々に主がふれてくださるように祈ろうではありませんか。