私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習ってください。(コリント人への手紙第一11章1節)

1.エペソ人への手紙417節―32
2.ピリピ人への手紙22節―8
3.テモテへの手紙 第二1章7節ー13節
4.ペテロの手紙 第一15節―16

人は希望を失ってしまうと、また目的を持っていないと生きる力を失ってしまうのではないでしょうか。生きる力を得るために理想を掲げ、自分の理想にあった人を見つけると「あの人のようになりたい」とか「あの人のようになれたら」とあこがれをもって、その人のようになれるように努力するような生き方をしがちなのではないでしょうか。ところでイザヤ書53章2節―3節に十字架のイエス様について「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが見とれるような見ばえもない。彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまされ、私たちも彼を尊ばなかった。」と語っているように、パウロはキリスト者になる前は、その価値がわからず、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えて、キリスト者を迫害していたのですが、イエス様は福音宣教の働きのためにパウロを宣教者、使徒、教師として任命されたのでした。パウロはキリスト・イエスにある絶大な価値を知る者となり、自分の考えや与えられていた家系や立場に生き、自分の栄光を求めるのではなくキリストの証人として生きるためにイエス様を模範にして生きられただけでなく、「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習ってください。」と、すべてのキリスト者が彼のようにキリストを見習って生きることを願っただけでなく「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。(コロサイ人への手紙1章10節)」と祈られたのでした。イエス様は私たちが救われるために、父のみこころを成就するために、人にさげすまれようが、悪口を言われようがそれに抵抗することなく、ご自身を父にお委ねになり、ご自身のいのちをささげられたことを、自分を生かそうとするよりも、生まれながらの自分はすでにキリストともに十字架で死んでいることを心に留めて、主から与えられている使命、すなわちキリストの証人として生きようではありませんか。